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細川幽斎 (講談社学術文庫)』凄すぎw

書道の継承にも気を配って部下を派遣し学ばせ、
料理は有名ないくつかのエピソードに見る通り、
太鼓は名人級、鼓も笛も舞も上手だったという幽斎さん。
能の故実の知識も専門家以上。
観世左近一代一度という能見物で、
「観世の能は水引をひかないはずなのに、なぜ今日はひいたのか」
と楽屋に使いを出して聞いて、
そんなの知らない、忘れた、という古老をあわてさせたとか。
ああもう幽斎さん伝説に笑けてきた!w

音楽系やら和歌やら、幽斎さんは聴覚センスが秀でていた模様。
『耳底記』によると、
「茶碗であれなんであれ、それを打って調子を聞き、それと同じに
 琴を調べておいて、その側で茶碗なぞを叩くと、その響きが長く
 聞こえるものだ」
と言ったらしい。
これも絶対音感とかそういう類のものだよなー。
2010/11/02(火) 細川さん COM(0)
細川幽斎 (講談社学術文庫)』より、
歌人(というより歌学教授?)幽斎さんの対応3例。

◆Case1:近衛公から自作15首の批評を求められた時

同書p112
  身分の高い方であるから、普通の者の作品に対するように、ぶしつけに
 あまりはっきり非難することもでき難い。それにしても、自分としては
 この歌をただ結構でございますと軽薄に褒めて返すことは、いやしくも
 歌の師といわれるほどの者として正しくない行いであるし、といろいろ
 考えた末、多用の中にもかかわらず同じ題で十五首の和歌を作って、
 私はこのように詠みました、と添書して返したということである。

◆Case2:名月の夜に蒲生氏郷から名物・千鳥の香炉披露をねだられた時

同書p121
  すると幽斎は、急に何時にもない不愉快な顔つきで「今晩は、ついでもない
 から……」と、そっけなく断わった。
  氏郷は、「勿論、御秘蔵の重器ですから、そう易々と拝見できますまいが、
 今晩のおもてなしとしましては、これに過ぎるものはありますまい」と、たって
 望むので、幽斎も、その上いやとはいい難く、香炉を取り出して来たが、
 どうも甚だ不興な様子である。氏郷が香炉を手に取って、つくづくとうち眺め
 「いかにもまことに名にし負う名器でございます」と褒めても、幽斎はこれに
 対する返事もろくろくしないで、早々に香炉を納めてしまった。
  (略)
  (氏郷にこの幽斎の態度について相談された里村紹巴は)それを聞いて、
 しばらく考えていたが、はたと手を打って、「さすが幽斎殿はまことの歌人で
 ある。いや、実に感じ入る次第だ。それは順徳上皇の御製に、

    清美潟雲もなぎたる浪のうへに月のくまなる村千鳥かな

 というのがあるから、このお歌を思い出されてそのように断わられたのだろう」
 と感心した。

◆Case3:秀吉が「蛍の鳴く」というおかしな句を作った時

同書p134
  (おかしいと指摘した紹巴に対し)幽斎は、いや、それは少しもかまわぬ、
 古歌に、

    武蔵野にしのをつかねて降雨にほたるならでは鳴く虫もなし
    おく山のくち木の洞になく蛍声なかりせばこれぞ狐火

 というのがある故、お作りになった句もいっこう差支えありません。結構で
 ございます、といったので、秀吉の機嫌は甚だよくなった。
  (略)
  関白様が連歌をお好みなされ、熱心に稽古していられるのに、最初から
 規則やら何やらと、色々むずかしいことをいったなら、結局、連歌もいやに
 なられ、そればかりでなく、天下の者連歌を詠むことまかりならぬなどと
 いわれないとも限らない。そうなると、貴方の家業もなくなってしまうでは
 ありませんか、といったそうである。

同書の運びとしては、
「歌学正道を説くのも柔らかで、雅びなセンスは日常生活にも発揮され、
 歌学にこだわらない後々のことまで考え抜いて発言する、
 幽斎ってすごいよね!」
なんだけど。
自分より立場が上の人にはいろいろ考えた対応なのに、
氏郷にはキツくないですか、幽斎さんw
その歌を口ずさめば氏郷だって引き下がるだろうにー。

やっぱり遊泳術がうまいよなあとしか読めなかったw
2010/11/02(火) 細川さん COM(0)
細川幽斎 (講談社学術文庫)』より『細川家記』の孫引き。
幽斎のいろんな遺品は遺言でいろんな人に贈られた。

 ・大御所様(家康)へ
 ・将軍様(秀忠)へ
 ・秀頼様へ
 ・八条様へ
 ・烏丸様へ
 ・おかめ様へ

とリストアップされていく中、末尾、

 ・忠興君へ

とあるのがなんか妙にかわいいw
ちなみに忠興に贈られたのは、

 新勅撰 定家御筆
 岷江入楚 五十冊 也足軒御筆
 連歌だんす
 吾妻鏡
  以上

だそうだ。

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2010/11/01(月) 細川さん COM(0)
引き続き『細川幽斎 (講談社学術文庫)』より。

幽斎さんは、弓術>剣術だったらしい。
(*剣術も相当です)
先生は波々伯部(ははかべ)貞弘。
天正3年(1575)に師事、天正8年(1580)5月に免許皆伝。
これで他の人に指導することもできるようになって、
文禄5年(1596)には松平忠吉に免許を授ける。

同書p67
 (幽斎は)老年になって小倉に閑居した頃、ついその辺りを
 散歩するというような場合でさえも、供の者に弓を持たせ、
 刀の下げ緒に弓懸けをくくりつけて歩いた、ということである。

弓懸(ゆがけ)は弓を引く際に右手につける鹿革の手袋。
下げ緒にこういうのをつけてブラブラさせるのは、
別に格好悪いことじゃなかったのかなー?

あと、家臣たちが弓の練習をしているとよく見物した。
未熟な人間が恥じて練習中止すると、
「ここで見てるからしっかりやりなよ」
と熱心なので、皆しかたなく練習再開する羽目になる。
そうすると幽斎、満足して、
「そうそう、下手でも頑張れば少しずつ上達するし、
 下手に戻ることはないんだよ」
と言ったとか。

うん、いい話なのかもしれないけど、
だったら教えてあげたらどうでしょうかと言いたくなるなw

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2010/10/31(日) 細川さん COM(0)
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