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今日も『事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
前田利長の項。

 慶長14年(1609年)8月下旬に(建築中の高岡城)本丸の石垣が崩壊したおり、利長は家臣を責めず、短気とは裏腹な「われわれは、幸せから遠い存在だから、気に病まないでくれ」という書簡を送っている。

なんという隆元並の自虐!
幸せから遠い存在って……。
豊臣恩顧の大大名として、徳川政権で微妙な立ち位置だったということで、
そりゃ苦労も多かったんだろうけど。

 また利長は、家康の側近である本多正信の次男政重を加賀藩の重臣に迎え、幕府と折衝させて、「大坂方へ内通」という深刻な疑惑の解消に努めた。それでもなお、自身の存在が藩に不利益をもたらすことを恐れたのか、高岡城の破却と京都への隠遁を決意するが、大阪冬の陣を前にした慶長19年5月に高岡城で死去した。死因については服毒自殺との説もあるほど、募る病苦に重ねて、徳川と豊臣の間で懊悩した果ての死であった。
 晩年、利長は側近に宛てた書簡で、「母に会いたい」と赤心を吐露している。

……たしかにこれはツラそうだ……。
心身削られていたんだな。
服毒自殺説が出るくらいなら、私よりも公を意識できる主君だったのかも。

本多家次男・政重とのやりとりも興味出てきた。
2011/06/16(木) 前田さん COM(0)
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