『日本史伝文選』より、原文『安西軍策』
天文20年(1551年)、
大寧寺の変。
元就の元に、陶・義隆両方から加勢の要請が来た。
元就は、そばにいた児玉三郎右衛門(就忠?)に、
どちらに加勢すべきかを尋ねた。
児玉は即答した。
陶へ御一味宜しく覚えたりと申しければ。元就是は毛利興亡の加勢に候処に。
陶に同心せよとは何の謂や有ると宣へば。是は兼て思慮仕候と申しける。
其後隆元。元春。隆景其他宍戸安芸守を始め。
毛利家臣の衆残し無く召し寄せられ。其事如何と尋ね給ふ。
皆々口を閉じて居たりしに。熊谷伊豆守申しけるは。
陶へ御一味有る可しと申しければ。元就宣ひけるは主君へ向へ弓を挽き
陶に一味とは如何にと仰せければ。此度の合戦兎角陶勝利を得可く候。
然れども天罰遁る可からざる間。追付陶滅亡す可し。其時節を伺ひ
陶を退治し給ふ事何の仔細か有る可きと理を尽し申しければ。
同座の人々皆此理に服し元就朝臣も同じ給ひ。
「前からそう思ってました」
「今回はたぶん陶が勝つけど、そのうちどうせ滅びるし。
その時に陶を退治すればいいじゃん」
ということで、マキャベリスト発言は児玉さんと熊谷さん。
まあ元就が会議の場で表に立たせたという可能性もあるけどw
隆元(大内義隆が烏帽子親)、元春(陶隆房と義兄弟)、
隆景(大内義隆に寵愛を受ける)は、
いろいろ異見はなかったんだろうか?
本当は反対が出て大変だった、って記録も残しづらいとは思うけどw
でもこの後の毛利の行動からすると、
例え反対しても懸命に反対したって感じでもないような。
三兄弟に毛利第一主義が染みついていたか、
関わりはあってもクールな感情しか持ってなかったのか、
あるいは当時の人間関係は元々そんなものなのか、
興味あるなー。