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背景がいろいろわからないのでメモブログには載せなかった
『武功雑記』の一項。

『大野修理は近藤石州などに逢ても頼存候由申候。是は息彌十郎事なり。彌十郎屋敷は今の雉橋の御倉也。』

   大野修理(治長)は近藤石州(秀用)などに会っても、
   「頼み存ずる」と言っていた。
   これは息子・弥十郎についてのことだった。
   弥十郎屋敷は、今の雉橋の御倉である。

秀用は、小田原の役の時に、
秀吉に褒められたこともある武士。
治長は当時22歳、
もう秀吉の馬廻衆に取り立てられていたとしたら、
接点はその頃にあったのかな?

頼んだのはいつだろう?
治長は慶長4年(1599年)に
家康暗殺未遂事件の犯人のひとりとして下総に流罪。
翌慶長5年(1600年)関ヶ原で東軍として戦い、
罪を許されているが、
戦後は大坂に残った。
一方、秀用は、井伊直政といろいろあって、
この頃は出奔中か?
慶長7年(1602年)に徳川家に復帰なので、
ちょうどすれ違っているような気がする。

あまり縁が濃そうには見えないし、
実際そうだったから「石州などに逢ても」なんだろうけど、
そんなに必死になって、
息子弥十郎(治安)の一体何を頼みたかったのか?
江戸に屋敷があったということは、
弥十郎は無事助命されたのか?

いずれもネット検索では不明。
探し方が悪いのかなー。
2011/11/13(日) 豊臣さん COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
豊臣秀頼の項。

 秀頼の御奥での暮らし向きについては、秀吉の臨終の前年に細々と定められていた。慶長2年(1597年)4月20日に制定の定書によると、

  一、城中より出入りの手紙は、
    切手の門の当番衆が請け取ってから渡すこととし、
    奥から御用の手紙は「はりま」「あこ」の二人が取り次ぎ、
    当番に渡すこと。
  三、秀頼の小姓衆のうち、10歳より上の者は、
    太閤の留守に城中へ参ってはならない。
  四、秀頼への御礼は、当番衆を伴って申し上げ、
    進物は御番の坊主が取り次ぐこと。
  五、秀頼や母淀殿付きの侍は、
    鉄門外で御用をうけたまわるべきこと。
  八、御台所人、坊主ども、彦左衛門ならびに10歳より上の男子は、
    朝夕とも御台所で食事をしてはならない。
 十一、女房たちの外出は、
    「はりま」「あこ」二人のうちいずれかの許可を得、
    入るときは問題なしとする。
 十二、輿に載った女房衆は大蔵卿局の指示に従うこと。

女の入りは緩いものの、
男の出入りと女の出も厳しい感じ。
10歳より上の男子が禁則対象ってことは、
このあたりから「一人前」扱いになってくるということかな?

これは当時秀頼がいた大坂城西の丸「御奥」の暮らしらしいけど、
5つの数寄屋敷を構えていたという本丸に移っても、
たぶん女性優位の空間は変わらなかったんだろうな。
2011/06/16(木) 豊臣さん COM(0)
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