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事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
豊臣秀頼の項。

 秀頼の御奥での暮らし向きについては、秀吉の臨終の前年に細々と定められていた。慶長2年(1597年)4月20日に制定の定書によると、

  一、城中より出入りの手紙は、
    切手の門の当番衆が請け取ってから渡すこととし、
    奥から御用の手紙は「はりま」「あこ」の二人が取り次ぎ、
    当番に渡すこと。
  三、秀頼の小姓衆のうち、10歳より上の者は、
    太閤の留守に城中へ参ってはならない。
  四、秀頼への御礼は、当番衆を伴って申し上げ、
    進物は御番の坊主が取り次ぐこと。
  五、秀頼や母淀殿付きの侍は、
    鉄門外で御用をうけたまわるべきこと。
  八、御台所人、坊主ども、彦左衛門ならびに10歳より上の男子は、
    朝夕とも御台所で食事をしてはならない。
 十一、女房たちの外出は、
    「はりま」「あこ」二人のうちいずれかの許可を得、
    入るときは問題なしとする。
 十二、輿に載った女房衆は大蔵卿局の指示に従うこと。

女の入りは緩いものの、
男の出入りと女の出も厳しい感じ。
10歳より上の男子が禁則対象ってことは、
このあたりから「一人前」扱いになってくるということかな?

これは当時秀頼がいた大坂城西の丸「御奥」の暮らしらしいけど、
5つの数寄屋敷を構えていたという本丸に移っても、
たぶん女性優位の空間は変わらなかったんだろうな。
2011/06/16(木) 豊臣さん COM(0)
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