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『武功雑記』より。

 細川三斎嫡子は利家の聟なり。
 三斎の内室、大坂にて焼死の時、利家の息女は無事に御遁候。
 三斎姑の死するを見て遁るゝは、婦人と云ながら比興なり、
 離別あるべしと嫡子にすゝめらる。
 嫡子同心なし。
 左様の女房と夫婦たるものは、我子にあらずとて勘当いたされ、
 家督次男越中守續之。

三斎さん瞬間湯沸器エピソードのひとつ、
「姑が死んだってのになんでのうのうと嫁が生きてんだよ!
 そんな嫁離婚しろ!
 ……したくない? じゃあおまえも勘当だ!!」
の、忠隆廃嫡事件の件。
ものすごい修羅場があったんじゃないかと思うんだけど、
古語にするとおだやかに聞こえるからふしぎ!w


          よくない嫁だから離別すべきだよ>(´Д`)タダオキ
   タダタカ(・∀・)<えー、やだ


「すゝめらる」だと、こんな感じ。
2010/12/26(日) 細川さん COM(0)
1)千利休と秀吉の不仲が決定的になった時、
 秀吉を諫めたのは細川父子だった。
2)さらに利休が蟄居させられた時、
 見送ったのは古田織部と細川父子の3人だけだった。
3)利休の死後、利休の無罪を改めて主張したのも、
 細川父子だった。

……以上『茶道美談』より。

見送ったのは利休の弟子である忠興&織部の2人だと思ったけど、
ここに幽斎が追加されたのは、
文化人かつ義理堅い武士として評価されてたからかなー?
イメージ操作もそつなくこなす幽斎さんw
2010/11/26(金) 細川さん COM(0)
茶道美談』より。

忠興母、っていうんだから、
幽斎正室のこの方

「息子の茶会に出ると、足が冷えるのよねー」

っていうんで、
革足袋全盛の時代に木綿足袋を作っちゃったらしい。
で、それがそのままずーーーーっと今に至るまで足袋の主流。
(革足袋は高い上に蒸れるらしいから、そりゃねえw)

やっぱり奥さんもただ者じゃない細川さんち。
2010/11/24(水) 細川さん COM(0)
細川幽斎 (講談社学術文庫)』その他より、幽斎の奥さんについて。

幽斎夫人は沼田上野介光兼女。
『沼田家記』によると、
光兼が近習として仕えていた将軍義昭の命令により結婚。
話自体はずっと昔、幽斎が生まれる前からだとも。
名前は不明。(Wikiによると「麝香」天文13年(1544)生まれ)
結婚した時期も不明ながら、
長男・忠興誕生が永禄6年(1563)幽斎30歳の時、
次男・興元誕生が永禄7年(1564)なので、
その頃と推測。
ただしWikiだと興元は永禄9年(1566)生まれ。

幽斎に側室の記録はないので、
この夫人が生んだ幽斎の子は男4人女4人。
細川家菩提寺の南禅寺天授庵に、幽斎像とともに夫人像が伝わる。
内助の功があり、和歌を詠じ、琴を弾いた、との讃あり。

Wikiによると、
慶長6年(1601)、嫁ガラシャの死の翌年、
忠興家臣小倉入部の影響で受洗。
洗礼名はマリア。

慶長15年(1610)幽斎が死去の後は尼になった。
元和4年(1618)7月26日、75歳で死去。
法名は、光寿院殿華岳宗英大禅定尼。
徳川将軍家は弔使を忠興に遣わし、
7日間の碁・将棋の類の禁止で弔意を表した。
2010/11/03(水) 細川さん COM(0)
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