Sponsored link


This advertisement is displayed when there is no update for a certain period of time.
It will return to non-display when content update is done.
Also, it will always be hidden when becoming a premium user.
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
大村純忠の項。

 (正室)おえんは、夫の純忠が4人もの側室を持っているのが気に食わなかった。彼女は夫が洗礼を受けた当初、あまりキリシタンに興味がなかった。だがキリスト教が一夫一婦制で、側室の存在を認めていなかったことがきっかけで関心を寄せ、信仰へと進んだ。前代未聞の結婚式のやり直しは、キリスト教の秘蹟にもとづいて行われ、「妻はおえん一人」ということを夫が認め、側室を切り捨てたことを世間に宣言するものだった。
 おえんはこの再結婚式をきっかけに、夫との絆を深め、咽頭癌と結核に苦しんだ晩年の夫の闘病生活を献身的に支えた。
 また彼女は「マリアさま」と慕われ、キリシタン史料が「よき精神と理性」の持ち主と称賛し、多くの人をキリシタンに導いた。

過激派信者というイメージがあったドン・バルトロメオだけど、
やりなおし結婚式を挙げていたとは知らなかった!
洗礼後7年目の永禄13年/元亀元年(1570年)のことというから、
純忠38歳くらいか。
さて、夫婦のどっちが言い出したことだろうw

しかしおえんマリアさま、
そんな入信動機の割には熱心で真摯だなw
望んだものを授けてくれたキリスト教に、それだけ感謝したということか。

そして、元亀3年(1572年)、
平戸松浦氏や、おえんの実家西郷氏も味方につけた
大村純前の庶子・後藤貴明の軍1500に攻められた時。

 敵方の進撃が早く、三城城は味方の将兵を城に呼び込めないまま孤立する。城内にはキリシタン家臣の7人と男45人、それにおえんとその侍女、家臣の妻ら27人しかいなかった。
 おえんら女たちも槍や長刀を持ち、あるいは小旗をうち振って、城内を走り回り、さも人数がいるように敵に見せかけ、7家臣の指揮のもと、男女が心を一つにして城を死守した。これを「三城七騎籠り」という。
 松浦氏の軍勢は城の南斜面から直接攻撃を仕掛け、純忠の目前まで攻め込む。純忠は自ら士卒を下知して、木石を落とし、女たちも土塁上から砂、灰などを目潰しに投げつけた。そしてひるむ敵に鉄砲と弓を放って撃退した。
 こうしてなんとか敵の攻撃をしのぐうちに、家臣が次々に敵勢を割って城にかけつけ、最後は純忠自ら敵を追撃して勝利した。

ともに苦難に立ち向かい、勝利する。
なんか感動的な夫婦愛の物語になってるw
2011/06/18(土) その他の小話 COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
水野勝成の項。

 (備後福山)城は海に臨む平山城であったから、城南に広がる城下町は葦の生い茂る沼沢地であった。福山城が別名を「葦陽(いよう)城」というのは、ここに由来する。そのため城の下まで「浜川」と称する入江から海水が入り込み、漁船が外濠に進入して東門の橋下を過ぎて上魚屋町の岸へ繋留した。したがって朝早くから魚の競り売りの喧騒が城中にかまびすしかった。城主水野勝成はこれを嫌い、東門の入江の頭を築切らしたので、外濠の水深はいよいよ深くなり、鯔が群をなして泳ぐようになった。
「見たか聞いたか福山のお城、前のお堀に鯔が棲む」
 これはそのことを歌った当時の俗謡である。

ボラって、時々大量発生してニュースになる魚だよなw
勝成が外濠を見ると、こんな感じだったりしたのか。

というかその前に、
外濠という場所が、
そんなに簡単に漁船が進入できることに驚いたw
案外ルーズだったのかな。
勝成が嫌ったのも、
民間漁船の進入そのものよりも、競り売りの声みたいな書き方だしw
2011/06/18(土) その他の小話 COM(0)
「烏城」と書いて、

「うじょう」と読むと「岡山城」「黒石陣屋
「からすじょう」と読むと「松本城

へー。
2011/06/18(土) その他の小話 COM(0)
先日知った赤松広秀こと斎村政広。
この人の自刃は、
関ヶ原時に鳥取城下を焼き討ちした罪によるもの。
が、実はこの策の出所は、
鳥取城攻めを指揮し、斎村を寝返らせた亀井茲矩だったそうで。

「(やらせたのはおれだけど)やったのはこいつです」

で、新参者に罪をなすりつけて自分は城攻めの武功ゲットとか、
ヒデェwww

事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
亀井茲矩の項と、あとWikipedia見てみた。

スタートは尼子家臣で、妻の縁で尼子家老の家を継ぐ。
その妻の姉妹は山中鹿介。
鹿介が殺された時は秀吉軍にいたので、そのまま豊臣家臣に。

「日本国がぜーんぶ殿のものになったら、
 ぜひボクを琉球守に任じて下さいね!」

と、上司の気質をよく呑み込んだお追従で、イメージアップ。
(秀吉本人も自分の上司に似たようなこと言ってたよな?)
朝鮮に攻め込んで李舜臣に負けた時も、
ちゃんと虎を真っ先に献上していたとか。

秀吉死後には家康に接近。
関ヶ原でも上のような経緯で認められて、
3万8000石の鹿野藩ゲット。
息子は秀忠付近習で、
家康落胤説もある松平康重の娘を娶り、
娘も家康の甥にあたる松平忠清に嫁いで、まあ安泰。

……と書くと、
保身ばかりに悪知恵の働く悪どい政治屋なんだがw
そうやってゲットした鹿野藩では、
農業、鉱山開発、治水と政治手腕を発揮。
日本海側の藩主ながら
朱印状を得てシャムとの南蛮貿易にもいそしむという、
やり手の殿様だったよう。

その他面白いのがネーミングの趣味。
自分の城を、
仏典に出てくるマガダ王国首都ラージャグリハの漢名の
「王舎城」と名付けたり、
「オランダ楼」「朝鮮楼」を設けたり。
そして城下を、これまた仏典由来の「鹿野苑」、
城下の川を「流沙川」「抜提川」と名付けたり。

性格はちょっとどうかと思うけど、
これまたなかなかの趣味人だなあw
ただの漢籍や南蛮じゃなくて、
仏典っていうところが面白い。
南蛮貿易も、その先のインドを見ていたのか?
……となると、古代インドオタクということになるなw
2011/06/17(金) その他の小話 COM(0)
Sponsored link


This advertisement is displayed when there is no update for a certain period of time.
It will return to non-display when content update is done.
Also, it will always be hidden when becoming a premium user.