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事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
赤松広秀の項。

まず赤松広秀についてまったく知らなかったので、
Wikipediaにお世話になった。
ふむふむ、播磨守護職赤松氏の末裔で、
天正5年(1577年)、
西播磨龍野城主だった16歳の時に秀吉に降伏。
平位郷佐江村に蔵書数千巻とともに退隠。
藤原惺窩と親交を結び、
日本抑留中だった朝鮮の朱子学者・姜沆とも師弟関係になって
後に『看羊録』にも記載がある、と。
学者気質だなー。
「斎村政広」に名前を変えたのは、この頃か?

で、蜂須賀正勝の配下となり、
小牧長久手の戦いなどに参戦して武功をあげたため、
天正13年(1585年)、
24歳で2万2000石で但馬国竹田城主となる。
竹田城は、別名虎臥(とらふす)城。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」として、近年有名だな。

そんな絶景ビューポイントのお城を持ちながら、
領民の困窮を見、
麓に住居を構えて領内復旧に力を入れる。
年貢減免、治水工事、荒れ地の復興、桑栽培、養蚕興業、
さらに木地碗や漆器を作らせ、
これが後に「竹田家具」として有名に……って、
後世にも功績を残した名君だ!
学問の素養がいい方面に出た感じ。

なのに最期は家康の怒りを買って鳥取で自刃、
というのが悲しい……。
2011/06/16(木) その他の小話 COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
豊臣秀頼の項。

 秀頼の御奥での暮らし向きについては、秀吉の臨終の前年に細々と定められていた。慶長2年(1597年)4月20日に制定の定書によると、

  一、城中より出入りの手紙は、
    切手の門の当番衆が請け取ってから渡すこととし、
    奥から御用の手紙は「はりま」「あこ」の二人が取り次ぎ、
    当番に渡すこと。
  三、秀頼の小姓衆のうち、10歳より上の者は、
    太閤の留守に城中へ参ってはならない。
  四、秀頼への御礼は、当番衆を伴って申し上げ、
    進物は御番の坊主が取り次ぐこと。
  五、秀頼や母淀殿付きの侍は、
    鉄門外で御用をうけたまわるべきこと。
  八、御台所人、坊主ども、彦左衛門ならびに10歳より上の男子は、
    朝夕とも御台所で食事をしてはならない。
 十一、女房たちの外出は、
    「はりま」「あこ」二人のうちいずれかの許可を得、
    入るときは問題なしとする。
 十二、輿に載った女房衆は大蔵卿局の指示に従うこと。

女の入りは緩いものの、
男の出入りと女の出も厳しい感じ。
10歳より上の男子が禁則対象ってことは、
このあたりから「一人前」扱いになってくるということかな?

これは当時秀頼がいた大坂城西の丸「御奥」の暮らしらしいけど、
5つの数寄屋敷を構えていたという本丸に移っても、
たぶん女性優位の空間は変わらなかったんだろうな。
2011/06/16(木) 豊臣さん COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
石田三成の項。

 近江国犬上郡大滝村(現多賀町)に、当時の佐和山城の栄華をしのぶ童謡(かんこ踊り)の一節が伝えられている。

  一、おーれは都のものなれど
    近江佐和山見物しよ
  二、大手のかかりを眺むれば
    金の御門に八重の堀
    まずは見事なかかりかよ
  三、御門を入りてこのまたかかりを眺むれば
    八つ棟造りに七見角
    まずは見事なかかりかよ
  四、裏の御門まず出て北を眺むれば
    裾はみずうみ
    梢みごと

 この童謡から推測すれば、城の外観はかなり豪華絢爛であったようだ。もしかすると、三成は見栄っ張りの一面と宵越しの金は持たぬという気質もあったようである。

まさかの三成江戸気質説w
いや、江戸っ子は、
見えるところじゃなくて、見えないところに凝るんだっけか?

普通に考えると、
三成はあれこれ格好つける必要があったのかなとも思った。
自分こそ中枢であると自負していただろう豊臣政権は
周囲に派手な印象を与えていただろうから、
よけいにそうだったのかもしれないな。

だけど三成本人の印象は決して派手じゃないのが、
面白いところでもあり、哀しいところでもあるのかもしれない。
2011/06/16(木) 石田さん COM(0)
浅井長政が己高山三珠院から林檎1籠を贈られた、とのこと。
(滋賀県立琵琶湖文化館所蔵文書より)
そんな時代からリンゴがあったのかと思って、
月蝕中のグーグル先生に訊いてみた。

林檎と善光寺 幻の「和りんご」

 日本で“りんご”の名が記録されたのは平安時代の中頃(918年)ですが、それは中国から渡来した粒の小さな「和りんご」とか「地りんご」という品種でした。奈良の春日大社には、りんごの木を高倉天皇が1170年ごろ奉納したという記録があり、本殿前の「林檎庭」と呼ばれる庭には和りんごの木が植えられています。信濃では「高坂りんご」と呼び、お盆には善光寺で売られ、仏前に供えられました。お盆になると仏前にリンゴを供える慣習はこんなところがルーツでしょうか。長野県の飯綱山のふもとで栽培されていた高坂りんご、赤く直径が4~5cmほどに小さく、重さ60g。いまのりんごに比べると甘さが少なく、酸っぱくて、硬くて、少し渋味があります。中国の『本草綱目』には「林檎の果は味が甘く能く多くの禽(鳥の意)をその林に来らしむ。故に林檎(りんきん)、来禽(らいきん)の名がある」との記述があり、昔は十分に甘くて美味しい果物だったのでしょう。

なるほど!
今も細々とながら栽培されている模様。(高坂林檎→ 彦根りんご→
高坂林檎のウオッカ漬け、いいなw
2011/06/16(木) その他の小話 COM(0)
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