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先日知った赤松広秀こと斎村政広。
この人の自刃は、
関ヶ原時に鳥取城下を焼き討ちした罪によるもの。
が、実はこの策の出所は、
鳥取城攻めを指揮し、斎村を寝返らせた亀井茲矩だったそうで。

「(やらせたのはおれだけど)やったのはこいつです」

で、新参者に罪をなすりつけて自分は城攻めの武功ゲットとか、
ヒデェwww

事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
亀井茲矩の項と、あとWikipedia見てみた。

スタートは尼子家臣で、妻の縁で尼子家老の家を継ぐ。
その妻の姉妹は山中鹿介。
鹿介が殺された時は秀吉軍にいたので、そのまま豊臣家臣に。

「日本国がぜーんぶ殿のものになったら、
 ぜひボクを琉球守に任じて下さいね!」

と、上司の気質をよく呑み込んだお追従で、イメージアップ。
(秀吉本人も自分の上司に似たようなこと言ってたよな?)
朝鮮に攻め込んで李舜臣に負けた時も、
ちゃんと虎を真っ先に献上していたとか。

秀吉死後には家康に接近。
関ヶ原でも上のような経緯で認められて、
3万8000石の鹿野藩ゲット。
息子は秀忠付近習で、
家康落胤説もある松平康重の娘を娶り、
娘も家康の甥にあたる松平忠清に嫁いで、まあ安泰。

……と書くと、
保身ばかりに悪知恵の働く悪どい政治屋なんだがw
そうやってゲットした鹿野藩では、
農業、鉱山開発、治水と政治手腕を発揮。
日本海側の藩主ながら
朱印状を得てシャムとの南蛮貿易にもいそしむという、
やり手の殿様だったよう。

その他面白いのがネーミングの趣味。
自分の城を、
仏典に出てくるマガダ王国首都ラージャグリハの漢名の
「王舎城」と名付けたり、
「オランダ楼」「朝鮮楼」を設けたり。
そして城下を、これまた仏典由来の「鹿野苑」、
城下の川を「流沙川」「抜提川」と名付けたり。

性格はちょっとどうかと思うけど、
これまたなかなかの趣味人だなあw
ただの漢籍や南蛮じゃなくて、
仏典っていうところが面白い。
南蛮貿易も、その先のインドを見ていたのか?
……となると、古代インドオタクということになるなw
2011/06/17(金) その他の小話 COM(0)
日本でも有数の城である姫路城の怪異話。
「おさかべ姫」は知っていたけど、
天狗からの手紙もあったっていうのはすごいなw

以下『事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
池田輝政の項。

 (慶長)14年12月13日には、「大天神とうせん坊」と「二条のせんまつ」と名乗る天狗から輝政夫婦に宛てた料紙50枚以上にも及ぶ書状が城内から発見された(『歓喜院文書』『円満寺文書』にこの書状が残っている)。
 その内容は、輝政には岐阜城主時代から遠江の天狗の呪いがかかっている。今、遠江の「四りん坊」という天狗が、「丸りん坊」という天狗と語らって輝政夫婦を調伏しようとしている。これから免れたくば城の鬼門に八天塔(八転塔)を建てて護摩を修せよ、というものであった。しかし輝政がこれに取り合わなかったところ、怪異がますますひどくなり、輝政自身が病に伏すこととなったため、ついに刑部明神を城内に祀ることにした、というものである。

「通せんぼう」とも読める大天神天狗、親切だなw
そして料紙50枚以上って、元就も真っ青の筆まめ&くどさw
「四りん坊」「丸りん坊」は「しりんぼう」「がんりんぼう」だろうか?
「まるりんぼう」ならかわいいかもw

怪異譚が多いのは、
新領主に下肥にまで課税されて締め上げられた領民の怨嗟の現れ、
という説になっているみたいだな。
天狗の手紙でもわざわざ「岐阜城主時代から」とあるのは、やっぱりそれでか?

あと輝政個人じゃなく夫妻宛になっているあたり、
督姫の存在感は半端なかったんだろうなと思わせる。
正室だから当たり前ではあるんだけど、
まあやっぱりw

 また、「東に傾く姫路の城は花のお江戸が恋しいか」と俗謡に歌われ、天守閣を建てた大工の棟梁の桜井源兵衛が、創建当初から東南に天守閣が傾いていることを苦にして投身自殺をしたという伝承もある。

昭和の大修理で、実際姫路城の礎石の沈下が判明したとのこと。
天守台石垣を十分に堅牢にする時間もかけずに、
それだけ早く新領地に城を建てたかったということか。

播磨は南流する5本の川で分断された国だったというから、
早く統一のシンボルが欲しかったのかな。
2011/06/17(金) その他の小話 COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
赤松広秀の項。

まず赤松広秀についてまったく知らなかったので、
Wikipediaにお世話になった。
ふむふむ、播磨守護職赤松氏の末裔で、
天正5年(1577年)、
西播磨龍野城主だった16歳の時に秀吉に降伏。
平位郷佐江村に蔵書数千巻とともに退隠。
藤原惺窩と親交を結び、
日本抑留中だった朝鮮の朱子学者・姜沆とも師弟関係になって
後に『看羊録』にも記載がある、と。
学者気質だなー。
「斎村政広」に名前を変えたのは、この頃か?

で、蜂須賀正勝の配下となり、
小牧長久手の戦いなどに参戦して武功をあげたため、
天正13年(1585年)、
24歳で2万2000石で但馬国竹田城主となる。
竹田城は、別名虎臥(とらふす)城。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」として、近年有名だな。

そんな絶景ビューポイントのお城を持ちながら、
領民の困窮を見、
麓に住居を構えて領内復旧に力を入れる。
年貢減免、治水工事、荒れ地の復興、桑栽培、養蚕興業、
さらに木地碗や漆器を作らせ、
これが後に「竹田家具」として有名に……って、
後世にも功績を残した名君だ!
学問の素養がいい方面に出た感じ。

なのに最期は家康の怒りを買って鳥取で自刃、
というのが悲しい……。
2011/06/16(木) その他の小話 COM(0)
事典にのらない戦国武将の居城と暮らし (別冊歴史読本 93)
豊臣秀頼の項。

 秀頼の御奥での暮らし向きについては、秀吉の臨終の前年に細々と定められていた。慶長2年(1597年)4月20日に制定の定書によると、

  一、城中より出入りの手紙は、
    切手の門の当番衆が請け取ってから渡すこととし、
    奥から御用の手紙は「はりま」「あこ」の二人が取り次ぎ、
    当番に渡すこと。
  三、秀頼の小姓衆のうち、10歳より上の者は、
    太閤の留守に城中へ参ってはならない。
  四、秀頼への御礼は、当番衆を伴って申し上げ、
    進物は御番の坊主が取り次ぐこと。
  五、秀頼や母淀殿付きの侍は、
    鉄門外で御用をうけたまわるべきこと。
  八、御台所人、坊主ども、彦左衛門ならびに10歳より上の男子は、
    朝夕とも御台所で食事をしてはならない。
 十一、女房たちの外出は、
    「はりま」「あこ」二人のうちいずれかの許可を得、
    入るときは問題なしとする。
 十二、輿に載った女房衆は大蔵卿局の指示に従うこと。

女の入りは緩いものの、
男の出入りと女の出も厳しい感じ。
10歳より上の男子が禁則対象ってことは、
このあたりから「一人前」扱いになってくるということかな?

これは当時秀頼がいた大坂城西の丸「御奥」の暮らしらしいけど、
5つの数寄屋敷を構えていたという本丸に移っても、
たぶん女性優位の空間は変わらなかったんだろうな。
2011/06/16(木) 豊臣さん COM(0)
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