『
細川幽斎 (講談社学術文庫)』より。
本能寺の変後、光秀→幽斎宛の書状。
覚え
一、御父子もとゆひ御払ひ候由、もつとも余儀なく候。一旦、我らも腹立ち
候へども、思案候ほどに、かやうにあるべきと存じ候。然りといへども、
この上は、大身を出だされ候て、御入魂こひねがふ所に候事。
一、国の事は、内々、摂州を存じあて候て、御のぼりを相待ち候つる。但・
若の儀、おぼしめしよせ候はば、これもつて、同然に候。さしあひ、きつと
申しつくべき候事。
一、我ら不慮の儀存じ立て候事、忠興など取り立て申すべしとての儀に候。
さらに別状なく候。五十日、百日の内には、近国の儀、相堅むべく候。
それ以後は、十五郎、与一郎殿などに引き渡し申し候て、何事も存ずまじく候。
委細、両人申さるべく候事。
以上
六月九日 光秀(花押)
これを持って使いしたのは、明智秀満と荒木勘十郎だとか。
で、明智秀満が細川父子協力拒否の返事を持って帰ったと。
最初の段落ではちょっと本音を出しつつも下手に出て。
次の段落では領国はいくらでもあげるからね!と空手形を出して。
最後の段落では娘婿だよね、娘の舅だよねと縁をにじませて。
必死さは感じるけど、
あんまり情義とかに訴えた感じはない気がする。
あと「忠興」なんだか「与一郎殿」なんだか。
統一されてないのは、
そういう書式があるのか大慌てだったからかテンパってるからか、
どれだろう?
なお同書によれば、
腹黒なる御心ゆえに、我が身も忠興殿に見捨てられ、幽なる有様なり。
「お父さんのせいで私も忠興様に見捨てられちゃったじゃない!!」
というガラシャの恨み言も送られたそうで。
光秀、まさに四面楚歌だな……。
あ、このガラシャ恨み言の出典は『細川家記』で。
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