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メモブログ10/26付記事が、 歴史ブログ42位になった。
太田道灌の話。
山吹の~の歌ではなくて略記。

後北条氏前の関東は、
血縁入りまくりの同族同士の争いが多くてややこしいorz
太田道灌が勢力を伸ばすきっかけになった
乱を起こした長尾景春も、
道灌と祖父が同じだったかな?

流し読みしてたらずっと覚えられないorz
いつか気合い入れて調べよう……。
2011/10/28(金) つぶやき COM(0)
歴史をさわがせた女たち 日本篇』読了。
忠興とガラシャ夫妻の考察を興味深く読んだ。

p124
 忠興は、本当に彼女を熱愛していたのだろうか?
「寛政重修諸家譜」という江戸時代の公式記録がある。これによると、細川家では、
「本能寺の変のあと、珠子を離別したが、秀吉の命によって復縁した」
 と申したてている。これが事実なら、忠興の珠子熱愛説は、だいぶあやしくなる。戦国武将の習いとして、忠興は愛情よりも保身第一だったのではあるまいか。
(略)
 忠興には彼女の悩みの深さはわからない。もともと思索的、テツガク的なタイプではなく、ごく現実的な男なのだ。しかもそのかぎりにおいては、神経質なくらい気の廻るほうで、珠子を幽閉したのも、そのあらわれであろう。

忠興がガラシャを愛してたか愛してなかったかは、
本人の自覚もさることながら、
ガラシャはじめ周囲がどう解釈するかによっても
結論は違ってくるだろうから、
ひとまず置いておくことにして。
忠興が「現実的な男」ってところで、いろいろ考えた。

「現実的な男」といったら、何より幽斎。
あのいろんな特技は全部世を渡る上で役立つ「実技」だ。
芸術である和歌にしたって、
「こみあげる情動の発露」って感じとはほど遠い。
(すでに和歌自体そういうものなんだろうが)
生い立ちとか芸術的センスで洗練されて見えるけど、
本質的には家康に近いところがあると思うw

忠興もその点はとても父親似で、
しかも出来がいい。
(この辺、黒田父子とは違うw)
だけど父よりもうちょっと魂のシャウトwが感じられる気がする。
父親とあんまり仲が良くないのも、
そのあたりの違いから来るいらだちもあったのかなあ。

そんな忠興が年を取ってから、
「最近のオレ、幽斎みたい」
「和歌やっとけって言ってた意味がわかった」
的なことを言っているのかと思うと、
なかなか感慨深い。
2011/10/28(金) 細川さん COM(0)
今日、新しい意味を知った日本語。

じゅっ‐かい〔‐クワイ〕【述懐】
 1 思いをのべること。
 2 過去の出来事や思い出などをのべること。
 3 恨み言をのべること。愚痴や不平を言うこと。

3は知らなかった!
2011/10/20(木) 昔の日本語 COM(0)
筑後久留米藩主・有馬氏。
正直全然印象に残ってなかった家なんだが、
(有馬記念くらい?w)
ちょっと調べてみたら結構面白い。

初代・有馬則頼
赤松氏庶流の有馬氏に生まれ、秀吉の中国征伐の際に臣従。
武功があって気に入られてもいたようで、大名に取り立てられる。
が、秀吉死後は家康に接近、
68歳で関ヶ原にも出たらしいw
2年後に死去。
長男は小牧長久手で戦死していたので、
遺領は次男の豊氏へ。

二代目・有馬豊氏
姉が嫁いでいた秀次付家老・渡瀬繁詮の家老を務める。
秀次事件で渡瀬家が取りつぶしとなると、
領地の横須賀3万石と家臣をそっくり引き継いで大名に。
秀吉死後は父とともに家康に接近、
関ヶ原の功で福知山6万石に加増転封し、
後に父の遺領である摂津三田2万石の継承も許されて8万石。
そして大坂の陣での功から、
ついに筑後久留米21万石の国持ち大名にまで出世。
69歳で島原の乱にも出ているあたり、父似w

細川さんほど派手じゃないが、
世渡り上手だよなー。
主君の所領&家臣継承は、龍造寺と鍋島を思い出した。
則頼が秀吉に気に入られていたってこともあるのかな?
父親の遺領継承が許されたのも、
徳川家からの覚えがめでたかったからだろうし。
2011/10/20(木) 有馬さん COM(0)
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